犬のヒナが虹の橋を渡って100日以上が過ぎました。
49日を迎える少し前に、お骨は山の一角に埋葬し静かに眠っています。
《↓埋葬前の部屋の祭壇》
脾臓に悪性腫瘍ができ、気づいた時には手の施しようがなく、約2週間ほどの看護生活は、お世話をする側にとってはあっという間といえばあっという間でしたが、ヒナにとってはどんな時間だっただろうと思います。
死に至るような疾患はイロイロありますが、悪性腫瘍の場合は本当に本当に痛いそうです。末期となると、とんでもない痛さなんだと思います。(人間のガンの緩和ケアでモルヒネを使ったりするくらいですから、確かにですよね。)
《↓旅立つ数日前、寝返りも自分では痛くてできないので人の介助が必要でした》
今回、ヒナは内服の痛み止めを段階的に処方され、息を引き取るギリギリまで服用させていましたが、日に日に効く時間は短くなり、今まで聞いたこともないような「悲鳴」をあげることもありました。
犬が悲鳴をあげるくらい痛がる、って相当痛いと思います。
最後の数日は、一人のボランティアがヒナにつきっきりで看護しました。正直、最後の方は処方時間を少し無視して早めに薬も飲ませました。少しの間でもヒナがスーッと寝てくれるのを励みに頑張りました。(ヒナが大好きなベテランボラさんです)
ヒナが逝ったあと、多くの方が「ヒナちゃん最後までよく頑張ったね」「よく生きたね、がんばったね」と言って見送りました。
ヒナは確かに犬生を全うしました。
するとそのあと、こんな疑念が湧いてきたのです。
もう助からないってわかってて、しかもこんなに苦しんでる姿で、自然に死ぬまで我慢させる必要ってあったのか?
安楽死のことが頭をよぎりました。
現在、日本では人間の安楽死は法律で許されていませんのでそれは論外ですが、ここでは動物のお話。法律上では、安楽死は禁止ではありません。
安楽死が正解という訳でもなく、最後まで生を全うさせることが不正解ってことでもなく、何が彼らにとって、本当に寄り添うことになるんだろうか・・・・とボランティア同士(一部のメンバーですが)で話をしました。
正直、これ!って一つの答えは、話しても話しても出ませんでした。
ヒナのことで言えば、
普段は山(シェルター)での限られた時間でしか会えなかった大好きなボランティアさんと、24時間ほぼ一緒に居られたのだから、痛くて苦しかったけど、かけがえのない時間だったかもしれない。
いや、そんなことよりあの苦しくて辛い時間を一刻も早く解放してあげるのが、彼女にとっては幸せだったかもしれない。
はっきりとした正解はわからないんです。
犬(動物)が「こっちがいい」って言ってくれればいいけど、それは不可能ですもんね。
ただ、何が一番彼らにとって大切なことだろうか、と考えることはとても必要だと思いました。
安楽死については、今回もそうだし、約1年前のだいちゃんの時にも、後になっていろいろ考えたのですが、事前にその可能性を考えておかないと、実際に寝たきりとか苦しみ始めてだと目の前のことにいっぱいいっぱいで冷静に考えられない、というのが現実でした。人間側の感情で言えば、亡くなるその時まで看護をしたことである意味やりきった感はあるのですが、その分、無駄に苦しめたかもしれません。ああ、やっぱり安楽死を選ぶべきだったかも・・・。
一方で、西洋の動物福祉を学んでいた友人が、いよいよの時は安楽死も選択肢の一つだと事前に心の準備として持っていて、いざその時になり(腎臓病が悪化し、本犬も苦しみ、数値的にも生存不可能だった)結果として安楽死を選んだのですが、あとで少し「これでよかったかな」という思いが浮かんできたそうです。(ワンコは、家族に見守られ穏やかに眠るように旅立ちました。)
ここまで長々と書いて、正解ないんかい?!
って感じだと思いますが、いずれは必ずやってくるパートナー(動物)の看取りの際の寄り添い方を考えるきっかけになれば嬉しいです。
(看取りは究極の時ですが、普段から動物の立場にたった寄り添い方を意識することで、動物との接し方もかわってくるかもしれませんよね)
さらに長くなるので、今回はここで終わりますが、後日、西洋の動物福祉における生死の考え方、日本の動物愛護における生死の考え方、みたいなこともお話できればと思います。
以上ですー。
ヒナ〜いまはとにかく安らかにね。ありがとう。